英語で読むHAIKUの世界


<なぜ英語でHaikuを読むのか? / 英語に訳されたTankaやHaikuを読んでみる / 英語人が感じる”東洋的な何か”とはなんだろう? / 英語で書かれたHaikuの作品紹介 / 英語と日本語、主語のありか / 東洋が西洋で登場する場面 / 「寄物陳思」とは?>



 先日、『ポエトリーサーカス』というイベントに参加し、詩の朗読をしました。ポエトリー・リーディングのイベントで、東京/原宿のBOOKS BUNNYという洋書ブック・カフェで開催されました。

(図: ポエトリーサーカスのフライヤー)
(図: ポエトリーリーディング、当日の様子。筆者は右の眼鏡、帽子)

<なぜ英語でHaikuを読むのか?>

 テーマは「外国詩」ということで、HAIKUをとりあげることにしました。
 以下はその日に用意した、プレゼン資料のパーツを集めたもの。
 あわせて、今回紹介したHAIKU / TANKA、それと現時点での感想を注釈で書いていきます。

 今回の私のリーディングでは英語版のHAIKU/TANKAを読み、その後に日本語の俳句/短歌を朗読しました。

 ここでHAIKUやTANKAとローマ字表記をしていることにお気づきかと思いますが、これはなぜかというとHAIKUと俳句は厳密には違うものだからです。このことはまたあとでくわしく書きます。



 よく「詩の翻訳は不可能だ」といわれます。
 この理由については、私自身、翻訳家として歌詞の翻訳をしたことがある経験から、以下の二つの理由によるものと考えています。



 翻訳の多くは「意味」で訳すことがメインで、翻訳家はとかくそれに必死になるものですが、ポエトリーを成り立たせている要素は「意味」と同様に「音」の役割がとても大きい。これは詩によって異なり、例えば音楽の歌詞のように「音」に近いものもある。この二つの側面を訳すのは大変、難儀です。あるいは奇跡的です。それゆえ、不可能といわれるのかもしれません。

<英語に訳されたTankaやHaikuを読んでみる>

 下記に紹介するのは万葉集からの短歌です。Kenneth Rexrothという詩人/翻訳家が訳しています。片意地をはっていなくて、要所をおさえている気がして好きです。Kenneth Rexrothは20世紀中頃、東洋詩を数多く翻訳し、アメリカに紹介した功労者で、ビート世代の作家たちにも多大な影響を与えたことで知られています。



 Kenneth Rexrothという人、もの静かそうだけど、内面に爆発的なものを秘めてそうで素敵です。枯れた風貌もお似合い。彼はというとこんな顔。

(図: Kenneth Rexroth)

 と、先ほど、「音」と「意味」の両方を訳さないといけないので大変だ、と言いましたが、だからこそなのか、短歌や俳句を英語と日本語で照らし合わせて読むととてもいいと思います。新しい接し方ができる気がします。

 また上記の理由以外にも、例えば短歌の場合は現代の日本語と隔たっているということもあり、英語のTANKAに新たな解釈が入り、意味がクロース・アップされる、というのも便利だな、と感じます。

 次に小林一茶を英語で読んでみましょう。

 翻訳者はRobert Hassというカリフォルニア人。バークレー校で教鞭をとっています。彼はというとこんな顔(下図)。ちなみにRobert HassはバークレーでLunch Poemsっていう詩人のリーディング・プログラムを主宰していて、このプログラムはYoutubeに丸々でてますが、和やかで楽しそうなムードです。現代のアメリカン・ポエトリーが聴ける貴重な場でもあります。


(図: Robert Haas)


 Robert Hassの英訳はKeneth Rexrothの翻訳をさらにシンプルに、日常の言葉に近づけたものという気がします。

 しかし、ここで英語のHAIKUには日本の俳句のような一定ルールがない、ということに気がつきますね。言葉数や音節数の決まりはない。そしてものによっては季語もみられない。それならば英語人は何をもってしてHAIKUというのを定義しているのでしょうか。

<英語人が感じる”東洋的な何か”とはなんだろう?>



 ここで注目すべきなのは、英語でいうHAIKUという表現方法が20世紀になってから、ヨーロッパやアメリカを中心に広まった、ということです。そしてさらに着眼すべき要素はHAIKUがモダンやアヴァンギャルド文学と同じ文脈で紹介された、ということです。

 先ほどのKeneth Rexrothも1950年代以降、ビート文学の作家に盛んにとりあげられた詩人/翻訳者でした。Robert Hassも世代的には西海岸、カリフォルニアの新進気鋭な文学運動をふんだんに吸い込んで育ったはず。

 1950年代から1970年代のアメリカン・カウンターカルチャーが再発見したものこそ「東洋」でした。東洋思想の種は、戦前、鈴木大拙や岡倉天心が英語で書いた書物から発芽し、さらに時を経て当時のアメリカの若者のあいだで広く読まれようになった。そして紹介されたモノの考え方は次第に英語化され、そのうちZENやHAIKUといった言葉も少しずつ使用されるようになっていきました。

 つまり、英語でいうHAIKUとは西洋にはない「何か」を表象する、モダンでアヴァンギャルドな表現としてとらえられたのだと思います。それはミニマリズム(最小限主義)が登場した背景とも同じ線上で理解され、消化された。



<英語で書かれたHaikuの作品紹介>

 次第にHAIKUを翻訳物として読むだけではなく、実際に英語で書いてみましょうか、という詩人たちもあらわれたのですね。

 次にその中からいくつかを紹介したいと思います。
 ちなみに翻訳は小生が手がけました。
(図: Allen Ginsberg)



 どんどんいきます。
(図: Jack Kerouac)



 次は20世紀アメリカ文学を代表する、アフリカン・アメリカン文学者、リチャード・ライト。彼はアメリカの人種差別を取り上げた小説家として有名ですが、実はHAIKUも書いていた。



 (図: リチャード・ライト)



 先日、ケルアックの『オン・ザ・ロード』新約の翻訳家、青山南先生と飲んでいたら、「黒人文学を通して人種差別意識を超えようとしていたライトが越境の表現として見事成功したのはHAIKUだった」といったことをおっしゃっていて、とても興味深いご意見でした。 

別の詩人のHAIKUも読んでみましょう。



 こういった大変ミニマルなHAIKUもあります。この言語実験感が楽しい。



 マスクをみている私がマスクをかぶっている私にすりかわっているような不思議なHAIKUです。

<英語と日本語、主語のありか>

 さてHAIKUを訳していて私が一番気になっているのは、主語のありか、です。主語性の問題は翻訳家として私がよく考えることです。なぜなら英語は一般的に主語を必要とする言語で、日本語は主語を必ずしも必要としていない言葉だからです。英語で主語が使用されている文章を日本語に訳す時、主語は必ず入れるべきなのか。あるいはその逆の場合、主語がない日本語文を英語に訳す時はどの主語を用いればいいのか。これはなかなか厄介な問題です。日本語を英語にする場合、日本語では主語がない場合は多々ある。これを一言一句、英語に訳そうとする場合、文章のニュアンスが変わってくるし、文章全体にも決定的な変化がでてきます。

 ただし、ここでとりあげているHAIKUやTANKAを読んでも英語で書かれているのに主語がないものが多い。これはなぜなんだろう。



 英語でも話し言葉の中では主語は必ずしも使われてはいないのではないかということ。ただそれが書き言葉になった時、英語は主語がない具合が悪い。状況に不適切な服を着ているようで、何か気持ち悪い気がする。これは書き言葉の英語では主語を明記する、という暗黙のルールがあるからです。

<東洋が西洋で登場する場面>

 ならば英語でHAIKUが主語を必要としなくなったのはどういうことなのだろう?またそれはいつからなんだろう?

 そういったことを考えてる時、ハッと脳裏をよぎったのが、スターウォーズのヨーダです。



 スターウォーズ・シリーズの生みの親、ジョージ・ルーカスは東洋思想が好きなことで知られてますが、ヨーダの話し方を思い出すと主語がなかったような気がする。
 例をみてみましょう。



 ここでは主語が省かれていますね。また主語と述語が逆転している。

 スターウォーズのヨーダは英語を話しますが、地球人ではない。ですので異国(異世界?)な言語感を映画の中で作り出す必要があった。このは異国人が話すような英語は20世紀も後半に近づいて、ますますメイン・カルチャーにも許容されるようになった。

 私はスターウォーズのヨーダは東洋の仙人をキャラクターとして移植したもので、日本的な感覚を現代の西洋ポプュラー・カルチャーに伝えているんじゃないか、と考えました。そして彼の独特な話し方も変形的に輸出された東洋カルチャーと切り離せないのではないか。

 ヨーダの話し方のような言語感はHAIKUから主語をなくすことにも一役買っているかもしれない。どうでしょうね。



<「寄物陳思」とは?>

 さて、もう一点だけ、今回のポエトリー・リーディングで私が発見したことを書いておきます。


 私がHAIKUやTANKAの世界観で深く興味をもっているのは、外部世界の情景や景色を描いているのに、心の風景をあらわしうるという表現手段です。外の世界にみえる風景の一点一点が作者の心象をも同時にとらえ、それに気がついた瞬間、いにしえの日本人はそれを言葉であらわしたいという欲求に駆られていたのではないか。その感覚はとても愛おしい。

 この漠然と感じる感覚をポエトリー・リーディングの終了後、来場者と話すことができました。来場者の一人、中村安伸さんは自身も俳句を書かれる方で、ちょうどこの話しをしたところ、「それは『寄物陳思』と言うんですよ」という答えが返ってきました。

 なんでもインターネットで『寄物陳思』、と検索してみると「思いは直接には述べず、モノに託して表わし、あとの解釈は読み手に任せてしまう、それが俳句の基本です」とかかれているものを発見しました。

 それ以上深いことは今のところ、てんで分からない。しかし、なにせ興味は尽きないのです。。。

 その他、中村さんは自分でもジャック・ケルアックのHAIKUを訳したりしているらしい。。また、「アヴァンギャルド・川柳というジャンルもあるんですよ」といったことも話していた。そのうちもっとくわしく知りたいものす。

 最後にケルアックが英語HAIKUの定義、として書いた文章がネットでみつかったので、(これをクリック→)あとで読みすすめることを課題にしておこうかな。

 そういえば、青山南先生はケルアックのHAIKUは「スケッチのようだ」と話してましたね。今回のリーディングでも紹介しました。まさに都会の「スケッチ」。